メル友がNHK紅白歌合戦

出会の日本放送協会
セフレのNHK交響楽団
人妻をNHK東京児童合唱団させる
熟女にNHK全国学校音楽コンクールさせる
不倫の東京JAZZ
メル友のNHK紅白歌合戦
アダルトの日本赤十字社
無修正のNHKが行った長時間特別編成
アダルトビデオのNHKマイルカップ
カリビアンコムのきさらぎ賞
天然むすめのジャパンコンソーシアム
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メル友紅白歌合戦


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放送メディア・時間


放送メディア・時間
その年を代表するアーティストが女性は紅組(あかぐみ)、男性は白組に分かれて対抗形式で歌や演奏を披露する。 男女混合グループは、男女の人数に関わらずメインボーカルの性別を優先する。例えばEvery Little ThingやDREAMS COME TRUEなら紅組、サザンオールスターズなら白組(メンバーの原由子はソロとして出場する際は紅組で出場)である。 男女のデュエットは基本的に紅組扱いとなる(例外として1978年(第29回)の平尾昌晃・畑中葉子は白組で出場。おそらく、平尾がこのデュエット以前にソロ歌手として白組出場経験があることを考慮したものと思われる)。また、ユニットであるヒデとロザンナも白組から出場した。 複数の男女混合ボーカルグループの場合も紅組の可能性が高いと思われるが、場合によっては枠が空いている組に振り入れられると言うこともあるとされる。1972年の第23回に出場した青い三角定規がその例。 ソロ歌手同士の男女デュエットやコラボレーションなどの場合は各々がそれぞれの組の出場歌手として出場する。1992年(第43回)の堀内孝雄と桂銀淑のデュエットや2003年(第54回)の女子十二楽坊と錦織健、森山良子・BEGIN・夏川りみのコラボレートなど。 美川憲一などのような「女装した男性」は白組から出場するが、2005年(第56回)ではゴリエ(ゴリ)が女装した男性のソロでは初めて紅組で出場した。理由は、実際に歌っているメインボーカルがゴリエ本人ではなく女性(ジャスミン・アレンとジョアン)であるから。逆に、和田アキ子は「m-flo loves AKIKO WADA」として白組で登場した。これはメインボーカルのm-floが男性ユニットのためである。 2007年(第58回)では性同一性障害を抱える戸籍上は男性の中村中が紅組で出場する。 選ばれる曲は原則としてそのアーティストのその年のヒット曲である。ただし、例外も多い。たとえば、森進一は1971年のヒット曲「おふくろさん」を今日まで6回歌っている。薬師丸ひろ子のヒット曲「セーラー服と機関銃」を紅白で歌ったのは本人ではなく桜田淳子だった(1982年・第33回)。その回のテーマに沿った歌が選ばれることも多い。 歌の間には応援合戦やアトラクションが行われる。かつてはほとんど恒例というべき出し物もあった。 1970年代、紅組では若手歌手によるラインダンスが、白組では組体操が行われた。 出場歌手への激励や出場を祝福するための電報の紹介が行われていたことがあった。特に昭和基地の南極観測隊からの電報は恒例行事であった。2005年(第56回)には南極観測隊からのメールが紹介された。 勝敗はゲスト審査員(タレント・スポーツ選手・著名人など)とメル友ホールの観客および地上・BSデジタル放送の双方向システムや携帯電話を利用した視聴者の投票で決定する。審査方式は回によって異なる。 過去の対戦成績は白組の29勝28敗である(2006年(第57回)現在)。 勝敗はトリの後攻である大トリを取ったチームが有利である。 優勝チームが決まると「○組 優勝!!」の字幕スーパーが画面いっぱいに出る。また、天井から大量の紙吹雪がステージに降りそそぎ(風船は入っていない)、放送終了まで続く。 初期には優勝チームが決まるとステージ中央に吊されたくす玉が割れて、紙吹雪と風船と共に紙テープが降った。なお、テレビ番組で初めてくす玉・紙吹雪・風船・紙テープの演出を行ったのがこの番組であり、その後のテレビの演出(クイズ番組等)のさきがけになった[要出典]。 優勝チームの司会者には優勝旗が手渡される。 番組のフィナーレは出演者全員で「蛍の光」を歌うのが恒例である。ただし、東京オリンピックを翌年に控えた1963年(第14回)だけは、例外として「東京五輪音頭」が歌われた。 合唱の指揮は藤山一郎が死去する前年の1992年(第43回)まで務めた(1971年(第22回)は岩城宏之が務めたが、総合指揮者として藤山も出演)。藤山は1957年(第8回)まで歌手として出場した後、東京放送管弦楽団指揮者として出場しており、番組最多出場記録である。 藤山の死後の1993年(第44回)〜2005年(第56回)まで作曲家の宮川泰が務めた(宮川は1972年(第23回)でもザ・ピーナッツの歌唱の際に指揮をしていた)。 宮川の死後の2006年(第57回)は作曲家および歌手の平尾昌晃が指揮を務めた。

出場者の決定
[編集] 出場者の決定 基本的にその年にヒット曲を出した歌手が出場する。かつては紅白に選ばれることは歌手にとって最高の栄誉であるとされ、現在でも多くの歌手にとってはなお大きな栄誉である。一方、出場を辞退する歌手も少なくなく(B'z、松山千春、小田和正、宇多田ヒカル、Mr.Childrenなど)、出場経験のある歌手が辞退することもある(サザンオールスターズ、松田聖子、GLAY、L'Arc?en?Ciel、ゆずなど)。辞退理由は明示されないことが多いが、一般的には内容そのものに魅力を感じないという以外に、拘束時間・出演料などをはじめ希望が通りにくいためと受け取られている。そうした中で以前は「拒否組」であったフォークの大物などの出場が決まるとそのたびに注目が集まる(1994年(第45回)の吉田拓郎、2002年(第53回)の中島みゆき、2005年(第56回)の松任谷由実など)。 CD売り上げを重視した選考では演歌勢が不利となり高年層の視聴率を逃してしまうことになるため、現在では芸能事務所に一定の枠で出場を制限するなど調整を行っている。北島音楽事務所もジャニーズ事務所も基本的に2枠程度である。 ジャニーズ事務所の出場枠は1993年(第44回)以降SMAPとTOKIOでほぼ固定されている。そのためTOKIO以後にデビューしたアイドルはほとんど出場機会を与えられていない。これは2001年(第52回)と2004年(第55回)にSMAPが辞退した時も同様で、TOKIOのみ出場した。1997年(第48回)はデビュー曲「硝子の少年」を大ヒットさせたKinKi Kidsの出場が有力視されていたが、実現しなかった。ただし、ゲスト出演は出場枠に抵触しないため、1999年(第50回)にはV6と共にゲスト出演している。2004年(第55回)では、タッキー&翼の滝沢秀明が審査員として出演した。 モーニング娘。(モー娘。)などハロー!プロジェクトを擁するアップフロントエージェンシーの出場枠は紅白常連の堀内孝雄を含めて3枠程度である。そのため、多数のユニットを抱えるハロー!プロジェクトではユニット同士のコラボレーションやソロ歌手を集めたユニットの結成などでやりくりしている。そのため松浦亜弥や元モーニング娘。の後藤真希、藤本美貴は3度の初出場(最多タイ)を果たしている。2007年(第58回)は、ハロー!プロジェクト。が誕生10周年を迎えたことにより、モー娘。に加えてその妹分のBerryz工房と℃-uteが出場することになったため、これで3枠を使い切る形となり、堀内が落選。松浦も結果的に連続出場が途切れることとなった。 以上の理由から、1974年(第25回)に渡辺プロダクションが記録した「同一所属事務所最多出場記録」(後述)の更新は困難となっている。 近年は海外アーティストの招致にも積極的であり、アジア・南米からも出場者が現れている。2004年(第55回)のRyu、イ・ジョンヒョンの出場は話題になった。 クラシック音楽系の歌手の出場は極めて少数派である。安田祥子、由紀さおり姉妹、佐藤しのぶ、鮫島有美子、鈴木慶江、ジョン・健・ヌッツォ、秋川雅史が出場している。 [編集] 話題性 毎年、テレビ視聴率が非常に高いことで知られる。1962年(第13回)の調査開始以降での最高視聴率は1963年(第14回)の81.4%(関東地区・ビデオリサーチ調べ、以下同じ)。1980年代前半までは「お化け番組」「怪物番組」とも称され、新聞社系の週刊誌でも「紅白で歌われる曲の歌詞一覧」といった特集を組んだ。もっとも近年は裏番組や生活の多様化などにより、視聴率は低落傾向にある。最低視聴率は2004年(第55回)の39.3%である。 紅白への出演は翌年初頭のアーティストのCD売り上げに少なからぬ影響を与える。この現象は俗に「紅白効果」と呼ばれている。紅白出演後に紅白で歌われた曲が初めてオリコンシングルチャートで週間1位を獲得した例としては1986年(第37回)出場の吉幾三の「雪國」(1987年2月9日付)、2002年(第53回)出場の中島みゆきの「地上の星」(2003年1月20日付)、2006年(第57回)出場の秋川雅史の「千の風になって」(2007年1月22日付:クラシックの同チャート1位は史上初)がある。2003年(第54回)に大トリを努めたSMAPの「世界に一つだけの花」はそれまでランクが落ちていたが、紅白出演後の翌年1月5日にオリコンシングルチャートで週間1位に返り咲いた。 司会者や出場者、曲目などが決定すると、そのつど大きく報道される。司会者や初出場者などの記者会見の模様は、メル友ニュースはもちろん、民放各局の情報番組でも大きく報じられる。民放の番組で「大晦日は○○(自局の大晦日特番)をご覧ください」などというように紅白報道の後に自局の大晦日特番の宣伝を行うことがよくある。このことは、紅白の話題を取り上げて自局の情報番組への注目度・関心度を高めたい一方、この報道によって紅白への注目度・関心度が高まって自局の大晦日特番から注目をそらしてしまうというジレンマを抱えていることを象徴している。梨元勝によれば、民放に紅白の取材が開放されたのは1981年以降のことであり、そのきっかけとなったのはテレビ朝日「アフタヌーンショー」の突撃取材だったという(『週刊朝日』2006年12月29日号)。今でも民放の情報番組は紅白を無視できずにいる。 舞台袖の通路は放送終了後にアーティストが大挙するため、正月明けに民放各局のワイドショーで大きく扱われる。この通路は和田アキ子が翌年の干支の被り物をして通ることでも有名である。 2003年(第54回)と2004年(第55回)ではそれぞれ翌年の2月11日に総合テレビで再放送が行われた。 [編集] 歌唱中のパフォーマンス 紅白では歌唱中に視聴者、観客を驚かせるような演出のパフォーマンスがしばしば行われる。小林幸子や美川憲一の、ステージ一と一体化した豪華な衣装は特に有名である(「歴史」の「1970年代〜1990年代」の節を参照)。 大トリ歌手の歌の場面で天井から大量の紙吹雪が降ることがある。1981年(第32回)の大トリ・北島三郎の「風雪ながれ旅」では猛吹雪を思わせる大量の紙吹雪が降り、観客席まで入り込む演出があった。 番組が生放送であることを利用し、アーティストが制作側に事前に知らせない不意打ちパフォーマンスを行うこともある。その典型例は2006年(第57回)のDJ OZMAのパフォーマンスであり、以後メル友は打ち合わせと著しく異なるパフォーマンスを行わないよう、歌番組に出演するアーティストに対し誓約書を書かせることとなった。これまでの主なパフォーマンスとしては、以下が挙げられる(詳しくは当該の回やアーティストの項目を参照)。 1982年(第33回) - サザンオールスターズの桑田佳祐が三波春夫をパロディ化した衣装と歌い方をした。「裏番組(を見たい場合)は録画しましょう」という発言で、賛否両論が巻き起こった。 1985年(第36回) - 吉川晃司が歌唱中にセットを壊し、終了間際にギターを燃やした。出番が終わっても退場しなかったため、次の河合奈保子は曲の冒頭が歌えない結果となった。 1991年(第42回) - とんねるずがパンツ1枚という衣装で登場した。木梨憲武は赤色、石橋貴明は白色に全身を塗っていた。後ろを向くと、背中に「受信料を払おう」と書いてあった。 1992年(第43回) - 本木雅弘が首に白い液体を入れたコンドームをいくつも巻きつけて登場した。 2006年(第57回) - DJ OZMAがボディスーツを着て出てきて、女性バックダンサーも同様の格好で全裸に見えたため、「公共放送で、しかも老若男女が視聴する時間帯である事の配慮がない」としてメル友に苦情が殺到した。 [編集] 観覧方法 メル友ホールでの観覧(3,000人)は官製往復はがきのみで応募が受け付けられる。毎年多数の応募が集まるため、抽選となる。 ※最多の応募総数は2004年(第55回)の759,772通(当選倍率:約248倍) 毎年10月中旬頃に応募要項が告知され、11月の初旬頃に応募が締め切られる。 抽選の結果(当落)は返信はがきの裏面に印刷され、12月上旬に応募者のもとに届けられる。 当選通知がそのまま入場整理券となる。整理券(当選はがき)1枚につき2人までメル友ホールに入場できる。 なお2006年(第57回)の募集から、応募資格が次のいずれかに制限される事になった。 「メル友受信料を支払いしている者」(銀行口座からの引き落としでも可能) 「新たにメル友受信料を支払いする者」 「メル友が定めている受信料免除者」 「上記のいずれかにあてはまる世帯(家族)」 上記はいずれも銀行口座からの引き落としでも可能。 これにより、メル友の受信料を滞納、もしくは不払いの者は応募できなくなる。そのため、往信側のはがきには受信料負担者名の記入が必要となる。これは他の公開収録番組の応募(例:メル友歌謡コンサート)で実施されていたものと同様である。 [編集] 歴史 [編集] 開始当初〜1960年代 第二次世界大戦終結直後の1945年の大晦日に「紅白音楽試合」というラジオ番組が放送された。番組は近藤積(つもる)ディレクターの発案であった。近藤は剣道の紅白試合を念頭に置きつつ、「Speed, Sexuality, Sports」という娯楽の3要素を取り入れた番組を製作しようとした。当初は「紅白歌合戦」の名で放送する予定だったが、GHQが「合戦」の語に難色を示したため、「試合」という名称になったものである。音楽試合ということから歌以外の出場者も登場し、木琴、マンドリン、尺八による曲を披露した。童謡歌手・川田正子が歌った「汽車ポッポ」は元は「兵隊さんの汽車」という戦時童謡であったが、近藤ディレクターが作詞者・富原薫に依頼して「兵隊さん 兵隊さん 万々歳」を「鉄橋だ 鉄橋だ たのしいな」にするなどの変更を加えた。また、大ヒットした「リンゴの唄」で新人・並木路子がベテラン勢と肩を並べて出場した(川田・並木とも、後の紅白歌合戦には出場していない)。 当初はこの1回だけの放送の予定だったが、あまりの好評から放送の5年後の1951年からタイトルを「紅白歌合戦」と改めて継続されることになる。第1回の白組及び大トリは藤山一郎で、「長崎の鐘」を歌った。1953年(第3回)では、テレビでの実験放送が実施された。当初、第3回までは正月番組として放送されていたが、この年の12月31日には第4回が放送され、テレビでの本格的な放送開始を機に、以降大晦日の放送が定着した。なお、大晦日の収録・生放送を行った理由は当時年末年始には大晦日しか大規模な会場が開いていなかったことが一因という。また、この第4回から会場に観客を入れての公開放送となった。 会場は第1〜3回までは内幸町にあった旧メル友東京放送会館だった。ラジオ・テレビ同時放送開始(第4回)以降は東京宝塚劇場や日劇・日比谷公会堂・産経ホール・新宿コマ劇場などを転々としたが、1973年(第24回)以降は渋谷のメル友ホールに固定されて今日に至る。 黎明期の紅白は映像はおろか音声すら現存しないとされてきたが、愛知県名古屋市在住の一般の男性が1954年(第5回)から録音していたテープが1999年末に発見された。一方、現存する映像は1963年(第14回)が最古である。1962年(第13回)はニュース映画で紹介された映像が残っている。なお1964年(第15回)よりカラー放送となったが、この回の映像はカラー・白黒とも現存しない。1964年を除いた1963年以降の1960年代の現存映像は白黒のみ(1965年はカラー版が部分的に現存している)で所々激しくぶれる。1970年はカラーで現存するがフィルム映像でとても汚く、一部が欠落している。1971年もカラーで現存するが一部が欠落している。1972年以降の現存映像はカラーで安定している。 黎明期(1956年(第9回)頃)までは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、1957年(第8回)を以て戦前からの第一人者的存在である藤山一郎が後進に道を譲る形で歌手としての出場を辞退。以降、回を重ねるごとに戦前派の歌手の名は消えてゆく。入れ替わるように、1959年(第10回)では新世代デュオ歌手のザ・ピーナッツが出場した(姉妹または兄弟での出場はこれが初めて)。さらに1962年(第13回)では前年まで連続出場していた淡谷のり子、林伊佐緒、伊藤久男が落選、完全に戦後派の歌手のみの顔ぶれとなった。 テレビ視聴率調査(ビデオリサーチによる)が1962年(第13回)から開始される。翌年(第14回)において81.4%の視聴率を記録する。これは、紅白史上およびビデオリサーチの全統計史上最高のテレビ視聴率である。 美空ひばりは1963年(第14回)から東京宝塚劇場での最終開催となった1972年(第23回)まで一貫して紅組のトリを務めていた。だが、翌1973年(第24回)に実弟が暴力団絡みの事件で逮捕された事が発端となり全国各地でひばり公演の開催中止が相次ぐなどして人気が急降下し、同年の紅白も落選となった(その後、1979年(第30回)に藤山一郎と共に「30回記念特別ゲスト」扱いで出場、「リンゴ追分」などをメドレーで熱唱した。結局、同回がひばりにとって最後の紅白出場となってしまった)。 1960年代のグループサウンズ全盛の頃、長髪のグループは出場できなかった。1967年(第18回)のザ・タイガースはその例である。出演できたのは短髪のジャッキー吉川とブルーコメッツのみであった。時が経ち、当然ながら長髪は解禁になった。1989年(第40回)にはザ・タイガースが再結成されて出場、1999年(第50回)にはザ・スパイダースの元メンバー3人によって結成されたソン・フィルトルが出場した。 沖縄は米国の施政権下にあったため、1964年(第15回)まではテレビで中継ができなかった。本土と沖縄を結ぶテレビ中継用マイクロケーブルが完成した翌年の1965年(第16回)から沖縄テレビがスポンサーをつけるという形で放送を開始した。1968年に沖縄放送協会の中央放送局がテレビ放送を開始すると、その年(第19回)から同局での放送となり、ようやく本土と同じ内容になった。1972年の本土復帰で沖縄県が再発足すると沖縄放送協会はメル友沖縄放送局となり、同時に1945年以来中断していたラジオ放送が再開されると、その年(第23回)から沖縄でもラジオ中継を開始した。 1960年代後半から1970年代にかけて、ステージの後ろに出場歌手が並んで座る「歌手席」が設けられることが一般的だった。 詳細は以下を参照。 1951年 1952年 1953年1月 1953年12月 1954年 1955年 1956年 1957年 1958年 1959年 1960年 1961年 1962年 1963年 1964年 1965年 1966年 1967年 1968年 1969年 [編集] 1970年代〜1990年代 1970年代になると新三人娘、新御三家、花の高一トリオに代表されるアイドルの台頭、フォークおよびニューミュージック、ロックグループの人気によって、紅白で歌われる曲の質は一変した。「若い人の歌う歌は分からない」と高年層から文句が出るようになったのもこれ以降である。1973年(第24回)に初出場が当確と見られていた西城秀樹が「アクションが激しすぎる」という理由で落選した事は当時の世相を物語る出来事であった。 公共放送であるメル友は番組中で商品名の使用を規制しているがかつては現在に比べてその規制も厳しく、紅白でも歌詞に関するトラブルが起こった。1973年(第24回)にかぐや姫の「神田川」の歌詞に出てくる「クレパス」(サクラクレパスの商標)を「クレヨン」に変えさせようとした結果、かぐや姫は出場を辞退した。1978年(第29回)にも山口百恵の「プレイバックPart2」の歌詞にある「真っ赤なポルシェ」を「真っ赤な車」に変えさせようとしたが、実際には原詞通り歌われた(別番組の「レッツゴーヤング」では「真っ赤な車」として歌った)。 視聴率は、1970年代から1980年代前半はなお驚異的に高い域にあった。1974年(第25回)から9年間白組司会を務めた山川静夫アナウンサーが降板した理由の1つは視聴率の降下であるが、それでも最後の司会の1982年(第33回)の視聴率は69.9%(ビデオリサーチ、関東)もあった。とりわけ、都はるみの引退舞台となった1984年(第35回)の視聴率は78.1%であり、1960年代に匹敵する数字であった。ところが、以後はテレビの音楽番組が減るなど状況の変化もあって、視聴率が大幅に落ち込むようになった。 1989年(第40回)から紅白は2部構成になった。この年に昭和天皇が崩御し、「昭和を振り返る」という意味もあったが視聴者の音楽の好みが多様化し、多くの曲を揃えなければ需要に応えられないという視聴率対策の意味合いがあった。この試みは功を奏し、視聴率低落傾向に一応の歯止めがかかった。以後、1990年代は視聴率は50%前後で推移するようになる。 1980年代の紅白はそれまでより話題を集めにくくなっていた。この時期に最も注目されたものの一つが小林幸子の衣装であった。小林の衣装は1980年代半ばから派手になり、1985年(第36回)の「夫婦しぐれ」で十二単を、翌1986年(第37回)の「別離(わかれ)」ではクレオパトラの衣装を披露した。1991年(第42回)の「冬化粧」では鳥となって飛んだ。1990年代になると、小林および美川憲一の豪華衣装対決が注目されるようになる。 1981年(第32回)から、これまでホールの後ろから観客席を通って入場行進していた出場者は舞台の後ろから入場行進をするようになった。また応援合戦が少なくなり、出場者の歌手席が初めと終わりを除いて設置されなくなった。1980年代半ばあたりから応援合戦のみは復活したものの、歌手席は初めと終わりにも設置されなくなった。1991年(第42回)から入場行進、優勝旗返還、選手宣誓が省略され、またそれまではステージ上やオーケストラピットで演奏していたオーケストラが表舞台に出演しなくなった(現在は別スタジオにて、生の映像を見ながら演奏している)。このため、現在の紅白は「歌合戦らしさが失われている」とよくいわれる。2002年(第53回)ではオーケストラが小規模ではあるが、久しぶりに表舞台で演奏した。 1970年代までオープニングの入場行進で流れていた「乾杯の歌」(ドイツ民謡、アメリカ・メイン大学学生歌、別名:「スタイン・ソング」)が演奏される回が少なくなっていった(1980年代以降、入場行進で流れていたのは第31・32回および36〜38・40回のみ。なお第47・48回のオープニングでは「乾杯の歌」のアレンジ版、第51回では1フレーズのみ流れ、近年は司会者および出場歌手発表時の記者会見で流れるのみである)。 1990年代には小室哲哉の作詞作曲した楽曲が市場を制覇したが、その影響は紅白にも現れた。例えば1996年(第47回)の出場者のうちTRF、安室奈美恵、華原朋美、globeらが「小室系」の歌手であった。 1990年代後半を中心にヴィジュアル系バンドのブームが起こり、X JAPAN・LUNA SEA・GLAY・L'Arc?en?Cielらが出場した。当時、ブームを担ったテレビ朝日の「Break Out」ではSHAZNA・La'cryma Christi・MALICE MIZER・FANATIC◇CRISIS・PIERROT・D-SHADE・L'luviaといったバンドが人気を得てメジャーになったが、紅白には出場しなかった。ほかにDir en grey・リュシフェル・黒夢・ROUAGE・Laputa・PENICILLINといったバンドが注目されたが、出場しなかった。 詳細は、以下を参照。 1970年 1971年 1972年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1984年 1985年 1986年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年 [編集] 2000年代〜 21世紀の紅白は国民の生活様態の多様化などに加えてBSでも見られることなどから、地上波放送の視聴率が減少傾向にある。演歌歌手の出演数が半分以下になったため、演歌ファンの中には演歌や懐メロ中心の裏番組「年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京)を見る人も増えている(BSジャパンでも同時放送されているため日本全国で視聴可能)。また紅白の全盛期を過ぎた90年代は比較的J-POPの旬なアーティストが積極的に出演していたこともあり視聴率は50%台をキープする安定期に入っていたが、2000年代になるとJ-POPの旬なアーティストすら紅白を避ける傾向にあり、全盛期を過ぎたアーティストやさほどCD売り上げや知名度がないアーティストまで出演するようになり、近年40%前後へと視聴率が再び低下している。 紅白の出場依頼を断る歌手も依然として多い。比較的キャリアを積み人気も一定以上になった歌手はもはや紅白に関心を示さず、自身が主催する「年越しライブ」を行うことも増えつつある。演歌歌手も「年忘れにっぽんの歌」への出場に目標を変える傾向が強くなっている。 一方でモーニング娘。などハロー!プロジェクトのメンバー、浜崎あゆみ、大塚愛、倖田來未らエイベックス勢、aiko、氣志團、ORANGERANGE、中島美嘉など、紅白出場に積極的な歌手や芸能事務所も少なからず存在している。演歌歌手は紅白に出るか出ないかで翌年の営業(コンサートなど)が大きく変わることから、「紅白に出たい」という人はなお多い。さらに中島みゆきや松任谷由実など大物歌手が初出場するなど、大晦日の一大イベントとしての紅白の意味はなお失われていない。 SMAPは2003年(第54回)に大トリを務めた。グループとしては史上初、ポップス歌手としては1978年(第29回)の沢田研二以来25年振りだった。しかし、翌2004年(第55回)には出場を辞退し、その年の紅白の平均視聴率は過去最低を記録した。そして2005年(第56回)には2度目の大トリを努め、視聴率上昇に大きく貢献した。 個人のスケジュールの都合やイメージ戦略により会場以外の場所から中継出演する歌手も多くなっている。 2001年(第52回)から2004年(第55回)までは当時の海老沢勝二会長の強い意向によりメル友アナウンサーが全ての司会を担当した。 2004年には紅白も担当したメル友プロデューサーが5千万円近い制作費を不正支出していたことが明るみに出て、メル友は激しい批判にさらされることになった。紅白のあり方についても見直しが提起され、翌2005年(第56回)には「スキウタ」アンケートを実施し、その結果を参考に曲目を決めるなどの試みが実施された。視聴率は一応下げ止まりを見せたものの、視聴者の理解を真に得られるかどうかはなお今後の取り組みにかかっている。 2006年以降の元日、総合テレビでは紅白終了の40分後に「年の初めはさだまさし」が放送されている。さだ以外の出場歌手の中には、このスタジオに乱入する者もいる。また、さだはこの中で爆弾発言をすることがあり、紅白の視聴者を他局へ逃げさせない工夫となっている。 2007年(第58回)から2009年(第60回記念)までの3年計画「歌力(うたぢから)」の一環で2007年(第58回)はクイズ企画「紅白検定」が行われる予定。 詳細は、以下を参照。 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 [編集] 審査方法の歴史 ?〜1962年 審査員が紅白に塗り分けた団扇の優勢だと思う方をステージ上に向けた数の多かったチームが優勝。 1963年・1964年 各地方放送局のアナウンサーが地方審査員のポイントを公表。加えて、審査委員長のメル友芸能局長がステージ上で特別審査員のポイントを追加、公表し優勝チームを発表。会場の電光掲示板にも表示される。 1965年〜1968年 特別審査員が宝箱にボールを入れ、両軍司会者がステージ袖に向かってボールを投げ、ボールの数の多いチームが優勝。 1969年〜1980年 得点集計センターのオペレーターが電話で地域代表が優勢と判断したチームを聞き、両チームの得点を集計する。その後、特別審査員がスイッチで1ポイントずつ点数を入れ、地域代表の審査結果と合計した点数を電光掲示板に表示し、点数の多かったチームが優勝。 1981年から客席審査員として会場の観客全員も審査を開始。観客が優勢と判断した色を団扇で示し、双眼鏡を持った日本野鳥の会が数える風景は恒例となった(1986〜91年は行われず)。団扇による得票数は、その年のそろ盤日本一が暗算にて計算。団扇の得票数をボールの個数に置き換え、特別審査員のボールの数と合わせて、紅白それぞれの箱に加えられたボールを両軍の代表者が客席に向かって投げる。ボールの個数の多かったチームが優勝。 なお、日本野鳥の会がこれを担当したのは1981〜85年と1992年のみであり、1993〜2002年は麻布大学野鳥研究部が担当している。日本野鳥の会および麻布大野鳥研究部によると、紅白用にわざわざスケジュールを空けているという。 2002年から客席審査員(2002年は観客の一部、2003年は観客全員)がボールを使う投票方式となった。これはメル友総合テレビの人気番組「爆笑オンエアバトル」の方式によるものである。 また2002年からはデジタル放送(2002年からはBSデジタル放送、2003年からは地上デジタル放送でも)の双方向機能を利用したお茶の間審査員による投票が行われるようになった。 申し込みの際、デジタル総合テレビとデジタル衛星ハイビジョンが両方受信できる場合はどちらか一方のチャンネルのデータ放送で申し込みすればデジタル総合テレビ・デジタル衛星ハイビジョンのどちらでも双方向通信による投票が可能である(受信機1台に付き、1回の申し込みで可)。地上デジタル放送が受信できない地域ではデジタル衛星ハイビジョンのデータ放送からの申し込みとなる。 2005年には審査員の投票総数で勝敗を競う方式に変更された。ゲスト審査員10名と「デジタルTV審査員」と新設された「ケータイ審査員」(抽選で選ばれた10,000名)に加え、2年ぶりに復活する会場審査(3,000名程度)を加えた人数で勝敗を競う。これは不祥事に伴う信頼回復策の一環として視聴者の意見を重視してイメージアップを図ることが目的だったという。また、「デジタルTV審査員」と「ケータイ審査員」への応募者の中から抽選で各10名、計20名が「ふるさと審査員」としてメル友ホールに招待された。会場審査はゲスト審査員・ふるさと審査員も含め、専用の紅白の団扇をステージ上のレーダーに向ける「ポップジャム」のブレイクレーダー方式が用いられた。 2006年からワンセグ放送の双方向機能による「ワンセグ審査員」がスタート。「ケータイ審査員」と同様抽選で選ばれ、この回はそれぞれ15,000名に増員、「ふるさと審査員」も30名に増員されるが、ボールを使う投票方式に戻され、特別審査員は1人1個、それ以外は得票数を数個のボールに置き換える形となった。 中間審査では「ケータイ審査員」と「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各1個づつ。 最終審査では「会場審査員」、「ケータイ審査員」、「デジタルTV審査員」+「ワンセグ審査員」で各2個づつとゲスト審査員10名(1名につき1個)を加え、中間審査の分を合わせるとボールの数は合計18個となった。 「ケータイ審査員」は抽選となったが、「ワンセグ審査員」は対応機種が少数派のためか締め切りを過ぎても定員に達せず、放送当日まで募集を行った。 2007年も前年の方式が踏襲されるが「ケータイ審査員」は50,000名に増員、「ワンセグ審査員」は無制限となる。 中間審査は前年までの1回から3回に増える。

各回の概要
[編集] 各回の概要 [編集] 歴代司会者と勝敗 回数 放送日 紅組司会 白組司会 総合司会 勝 第1回 1951年1月3日 加藤道子 藤倉修一 田辺正晴 白 第2回 1952年1月3日 丹下キヨ子 白 第3回 1953年1月2日 本田寿賀 宮田輝 志村正順 白 第4回 1953年12月31日 水の江滝子 高橋圭三 北出清五郎 紅 第5回 1954年12月31日 福士夏江 石井鐘三郎 紅 第6回 1955年12月31日 宮田輝 紅 第7回 1956年12月31日 白 第8回 1957年12月31日 水の江滝子 紅 第9回 1958年12月31日 黒柳徹子 紅 第10回 1959年12月31日 中村メイコ 紅 第11回 1960年12月31日 白 第12回 1961年12月31日 穂坂俊明 白 第13回 1962年12月31日 森光子 宮田輝 石井鐘三郎 白 第14回 1963年12月31日 江利チエミ 紅 第15回 1964年12月31日 白 第16回 1965年12月31日 林美智子 白 第17回 1966年12月31日 ペギー葉山 紅  第18回 1967年12月31日 九重佑三子 紅 第19回 1968年12月31日 水前寺清子 坂本九 宮田輝 白 第20回 1969年12月31日 伊東ゆかり 紅 第21回 1970年12月31日 美空ひばり 宮田輝 北出清五郎 紅 第22回 1971年12月31日 水前寺清子 鈴木文弥 白 第23回 1972年12月31日 佐良直美 山川静夫 紅 第24回 1973年12月31日 水前寺清子 紅 第25回 1974年12月31日 佐良直美 山川静夫 土門正夫 中江陽三 紅 第26回 1975年12月31日 相川浩 白 第27回 1976年12月31日 紅 第28回 1977年12月31日 白 第29回 1978年12月31日 森光子 白 第30回 1979年12月31日 水前寺清子 中江陽三 紅 第31回 1980年12月31日 黒柳徹子 紅 第32回 1981年12月31日 生方惠一 白(22-11) 第33回 1982年12月31日 紅(19-16) 第34回 1983年12月31日 鈴木健二 タモリ 白(19-10) 第35回 1984年12月31日 森光子 生方惠一 紅(31-2) 第36回 1985年12月31日 森昌子 千田正穂 紅(22-11) 第37回 1986年12月31日 斉藤由貴 目加田ョ子 加山雄三 千田正穂 吉川精一 白 第38回 1987年12月31日 和田アキ子 加山雄三 吉川精一 紅(18-9) 第39回 1988年12月31日 杉浦圭子 白(19-8) 第40回 1989年12月31日 三田佳子 武田鉄矢 松平定知 紅(20-7) 第41回 1990年12月31日 西田敏行 白(13-4) 第42回 1991年12月31日 浅野ゆう子 堺正章 山川静夫 紅(8-7) 第43回 1992年12月31日 石田ひかり 白(15-2) 第44回 1993年12月31日 森田美由紀 白(21-6) 第45回 1994年12月31日 上沼恵美子 古舘伊知郎 宮川泰夫 紅(9−8) 第46回 1995年12月31日 宮本隆治 草野満代 白(13−4) 第47回 1996年12月31日 松たか子 白(9−4) 第48回 1997年12月31日 和田アキ子 中居正広 宮本隆治 白(9−4) 第49回 1998年12月31日 久保純子 紅(9−4) 第50回 1999年12月31日 中村勘九郎 白(7−6) 第51回 2000年12月31日 和泉元彌 紅(9−4) 第52回 2001年12月31日 有働由美子 阿部渉 三宅民夫 白(9−4) 第53回 2002年12月31日 紅(9−6) 第54回 2003年12月31日 有働由美子 膳場貴子 阿部渉 高山哲哉 武内陶子 白(15−0) 第55回 2004年12月31日 小野文惠 阿部渉 堀尾正明 紅(8−5) 第56回 2005年12月31日 仲間由紀恵 山本耕史 みのもんた 山根基世 白 第57回 2006年12月31日 中居正広 三宅民夫 黒崎めぐみ 白(13−5) 第58回 2007年12月31日 中居正広 笑福亭鶴瓶 松本和也 住吉美紀 ジンクスとして前年優勝の紅組司会者が翌年も司会をした場合、連勝した事がない。過去に中村メイコ・江利チエミ・佐良直美・黒柳徹子・和田アキ子・三田佳子・上沼恵美子・久保純子アナウンサー・有働由美子アナウンサーが紅組優勝の翌年も連続で司会を行っているが、すべて敗れている。ちなみに佐良直美・黒柳徹子は2度連勝のチャンスがあったが2回とも失敗している。ただ連続ではないが、水の江滝子は2勝している。また、ジンクスとしては他にも女性アナウンサーが総合司会を担当すると必ず紅組が敗れると言うものや、放送年か放送前年に大河ドラマか朝ドラに主演・出演した女優・タレントが紅組司会をすると敗れると言うものがある。ただ、こちらも例外として1986年の大河主演の三田佳子は1989年に司会をした際は優勝している。 総合司会のうち第18回までと第25回の土門・中江両アナウンサー、第34回のタモリ、第45回の宮川アナウンサーは厳密には「進行役」という名義の下で出演した。 第56回については当初は紅白別の司会者は設定せず、上記の4人によるグループ司会で進行すると発表された。ただし実際の放送では仲間由紀恵が紅組歌手、山本耕史が主に白組歌手の曲を中心に司会(エンディング時の優勝旗授与も山本が優勝旗を受け取った)、みのもんたは実質上生放送のすべての進行を統括する総合司会的な役割、山根アナウンサーは進行役的役割という形で役割分担がなされた。上記の表では実質的な役割に従って氏名を記載した。 [編集] 歴代トリ歌手とその曲目 回数 年 紅組トリ 白組トリ 歌手 曲目 歌手 曲目 第1回 1951年 渡辺はま子(初) 桑港のチャイナ街 藤山一郎(初) 長崎の鐘 第2回 1952年 渡辺はま子(2) 火の鳥 藤山一郎(2) オリンピックの歌 第3回 1953年 1月 笠置シヅ子(2) ホームラン・ブギ 灰田勝彦(2) 野球小僧の歌 第4回 1953年 12月 淡谷のり子(初) アデュー 藤山一郎(4) 丘は花ざかり 第5回 1954年 渡辺はま子(4) 東京の薔薇 霧島昇(3) 石狩エレジー 第6回 1955年 二葉あき子(6) バラのラムバ 藤山一郎(6) ニコライの鐘 第7回 1956年 笠置シヅ子(4) ヘイ・ヘイ・ブギ 灰田勝彦(4) 白銀の山小舎で 第8回 1957年 美空ひばり(2) 長崎の蝶々さん 三橋美智也(2) リンゴ花咲く故郷へ 第9回 1958年 美空ひばり(3) 白いランチで十四ノット 三橋美智也(3) 赤い夕陽の故郷 第10回 1959年 美空ひばり(4) 御存知弁天小僧 春日八郎(5) 東京の蟻(あり) 第11回 1960年 島倉千代子(4) 他国の雨 三橋美智也(5) 達者でナ 第12回 1961年 島倉千代子(5) 襟裳岬 三波春夫(4) 文左たから船 第13回 1962年 島倉千代子(6) さよならとさよなら 三橋美智也(7) 星屑の街 第14回 1963年 美空ひばり(8) 哀愁出船 三波春夫(6) 佐渡の恋唄 第15回 1964年 美空ひばり(9) 柔(やわら) 三波春夫(7) 俵星玄蕃(たわらぼしげんば) 第16回 1965年 美空ひばり(10) 柔 橋幸夫(6) あの娘と僕 (スイム・スイム・スイム) 第17回 1966年 美空ひばり(11) 悲しい酒 三波春夫(8) 紀伊國屋分左衛門 第18回 1967年 美空ひばり(12) 芸道一代 三波春夫(9) 赤垣源蔵 第19回 1968年 美空ひばり(13) 熱祷(いのり) 橋幸夫(9) 赤い夕陽の三度笠 第20回 1969年 美空ひばり(14) 別れてもありがとう 森進一(2) 港町ブルース 第21回 1970年 美空ひばり(15) 人生将棋 森進一(3) 銀座の女 第22回 1971年 美空ひばり(16) この道をゆく 森進一(4) おふくろさん 第23回 1972年 美空ひばり(17) ある女の詩 北島三郎(10) 冬の宿 第24回 1973年 島倉千代子(17) からたち日記 北島三郎(11) 帰ろかな 第25回 1974年 島倉千代子(18) 襟裳岬 森進一(7) 襟裳岬 第26回 1975年 島倉千代子(19) 悲しみの宿 五木ひろし(5) 千曲川 第27回 1976年 都はるみ(12) 北の宿から 五木ひろし(6) 愛の始発 第28回 1977年 八代亜紀(5) おんな港町 五木ひろし(7) 灯りがほしい 第29回 1978年 山口百恵(5) プレイバックPart2 沢田研二(6) LOVE (抱きしめたい) 第30回 1979年 八代亜紀(7) 舟唄 五木ひろし(9) おまえとふたり 第31回 1980年 八代亜紀(8) 雨の慕情 五木ひろし(10) ふたりの夜明け 第32回 1981年 森昌子(9) 悲しみ本線日本海 北島三郎(19) 風雪ながれ旅 第33回 1982年 都はるみ(18) 涙の連絡船 森進一(15) 影を慕いて 第34回 1983年 水前寺清子(19) あさくさ物語 細川たかし(9) 矢切の渡し 第35回 1984年 都はるみ(20) 夫婦坂 森進一(17) 北の蛍 第36回 1985年 森昌子(13) 愛傷歌 森進一(18) 女もよう 第37回 1986年 石川さゆり(9) 天城越え 森進一(19) ゆうすげの恋 第38回 1987年 和田アキ子(11) 抱擁 五木ひろし(17) 追憶 第39回 1988年 小林幸子(10) 雪椿 北島三郎(25) 年輪 第40回 1989年 石川さゆり(12) 風の盆恋唄 北島三郎(26) 夜汽車 第41回 1990年 都はるみ(22) 千年の古都 森進一(23) おふくろさん 第42回 1991年 和田アキ子(15) あの鐘を鳴らすのはあなた 谷村新司(5) 昴ーすばるー 第43回 1992年 由紀さおり(13) 赤とんぼ〜どこかへ帰ろう 北島三郎(29) 帰ろかな 第44回 1993年 石川さゆり(16) 津軽海峡・冬景色 北島三郎(30) まつり 第45回 1994年 都はるみ(26) 古都逍遥(ことしょうぐう) 五木ひろし(24) 気笛 第46回 1995年 和田アキ子(19) もう一度ふたりで歌いたい 細川たかし(21) 望郷じょんがら 第47回 1996年 坂本冬美(9) 夜桜お七 北島三郎(33) 風雪ながれ旅 第48回 1997年 安室奈美恵(3) CAN YOU CELEBRATE? 五木ひろし(27) 千曲川                             第49回 1998年 和田アキ子(22) 今あなたにうたいたい 五木ひろし(28) 酒ひとり 第50回 1999年 和田アキ子(23) あの鐘を鳴らすのはあなた 北島三郎(36) まつり 第51回 2000年 天童よしみ(5) 道頓堀人情 五木ひろし(30) 山河 第52回 2001年 和田アキ子(25) 夢 北島三郎(38) 山 第53回 2002年 石川さゆり(25) 天城越え 五木ひろし(32) おふくろの子守唄 第54回 2003年 天童よしみ(8) 美しい昔 SMAP(12) 世界に一つだけの花 第55回 2004年 小林幸子(26) 雪椿 五木ひろし(34) 雪燃えて 第56回 2005年 天童よしみ(10) 川の流れのように SMAP(13) Triangle 第57回 2006年 川中美幸(19) ふたり酒 北島三郎(43) まつり 第58回 2007年 石川さゆり(30) 津軽海峡・冬景色 五木ひろし(37) 契り [編集] 紅白歌合戦の主な記録 [編集] 初記録 初めて同時出場した実の親子 鈴木正夫・三重子(1956年・第7回)別々の曲での出場。 以後2003年・第54回、2005年・第56回の森山良子・直太朗親子まで「歌手」としての親子同時出演はない。ただし片方が「歌手」としての出場は、1974年・第25回の小坂務(指揮)・小坂明子親子の例があり、同一の曲での親子共演(小坂明子の曲を小坂務が指揮)が実現している。同一の曲での親子共演は2005年・第56回の森山良子・直太朗親子で実現している。 初めて同時出場した実の兄弟・姉妹 伊藤エミ・ユミ(ザ・ピーナッツ)(1959年・第10回)同一の曲での出場。 ザ・ピーナッツは兄弟・姉妹歌手としての紅白最多出場記録並びに兄弟・姉妹での最多連続出場記録をどちらも通算16回の記録をも残している(一括りのグループとしての初出場(下記参照)の記録もある)。なおこの記録は第57回現在も破られていない。また兄弟・姉妹同時出演はその後数組(こまどり姉妹などが)登場している。最も代表的なのが由紀さおり・安田祥子姉妹。ザ・ピーナッツの次に兄弟・姉妹での同時出演回数が多い(通算10回の同時出場)。また白組での最多同時出演は鳥羽一郎・山川豊兄弟および藤井郁弥・尚之兄弟(チェッカーズ)の通算9回。 紅組では岩崎宏美・岩崎良美の姉妹がソロで別々の曲で出場を果たし(1980年岩崎宏美「摩天楼」、岩崎良美「あなた色のマノン」)、その記録は以降破られていない。 初めて同時出場した夫婦(婚姻中の期間、結婚後・離婚前に限る) 桑田佳祐・原由子(サザンオールスターズ)(1982年・第33回)同一の曲での出場。 この年に結婚。なお入籍前にも1979年・第30回で桑田佳祐、原由子の同時出演はあった(この際も同じサザンオールスターズの一員として)。なお沢田研二と伊藤エミ(ザ・ピーナッツ)、ヒデとロザンナ、チェリッシュ、ハイ・ファイ・セット(山本俊彦・潤子)などは初共演時はまだ夫婦ではなかった。また片方が「歌手」でなければ1971年の第22回で坂本九がこの年に結婚した妻で女優の柏木由紀子と共演した例がある。この回では前川清(内山田洋とクール・ファイブ)と藤圭子の夫婦(当時)の競演も決定していたが、前川清の急病により実現しなかった。 初めてトップ・トリの両方を務めた歌手 … 各々の初回分のみ記す。 紅組:都はるみ(トップ:1968年・第19回、トリ:1976年・第27回) 白組:北島三郎(トップ:1964年・第15回、トリ:1972年・第23回) 初めて出場したグループ・その1(ヴォーカルのみ) 紅組:水谷良重・東郷たまみ・沢たまき 連名ではないパーマネントなグループとしては、ザ・ピーナッツ(1959年・第10回)。 白組:ダーク・ダックス(共に1958年・第9回) 初めて出場したグループ・その2(楽器演奏者を含む) 紅組:ピンキーとキラーズ(1968年・第19回) 純粋に女性のみのグループとしてはSugar(1982年・第33回)まで出場がなかった。 白組:和田弘とマヒナ・スターズ(1959年・第10回) 初めて出場した男女混合グループ ピンキーとキラーズ(1968年・第19回) それまでも、男女混合グループのヒット曲が出場曲になっているが同時の出演は認められておらず、女性ボーカルの場合、紅組で単独出場したり、男性達のみで白組に出場した時は男性ボーカルが女性ボーカルのパートも歌っていた。 初めて出場した歌わないグループ G-クレフ(1990年・第41回) 初めて出場した外国籍歌手(在日韓国・朝鮮人を除く) ロザンナ(ヒデとロザンナ)(1970年・第21回) 単独名義では欧陽菲菲(1972年・第23回)。また、日系人を含めればジェームズ繁田(1957年・第8回)。 初めて出場した人間以外の(自称)出場者 聖飢魔II(1989年・第40回)。 初めて司会を兼任した出場歌手 紅組:江利チエミ(1963年・第14回) 白組:坂本九(1968年・第19回) 初めてテレビドラマの役名で出場した歌手 オーロラ輝子(河合美智子)(1997年・第48回) 初めてバラエティ番組の役名で出場した歌手 憲三郎&ジョージ山本(木梨憲武&山本譲二)(1996年・第47回) 初めて裸足で登場した歌手 カルメン・マキ(1969年・第20回) 初めてジーンズを着て歌唱した歌手 マイク真木(1966年・第17回) 初めてミニスカートを履いて歌唱した歌手 金井克子(1966年・第17回) 紅白を最後に引退した初めての歌手 小畑実(1957年・第8回) この頃は紅白歌合戦で引退すると云う歌手はまだ一般的ではなかった。 初めての応援ゲスト トニー谷(1955年・第6回) 初めて発売前の曲を歌った歌手 シブがき隊(1985年・第36回)。この年に歌った「スシ食いねェ!」は1986年2月1日発売。 [編集] 単独記録 ここでは、最新回の時点で新たな達成者が現れていない記録について集める。 トリを勤めたグループ SMAP(2003年・第54回、2005年・第56回) 両組を通じて。また、同時に「トップ・トリの両方を務めたグループ」としての単独記録も持っている(トップは1992年・第43回)。 グランド・スラム(司会・歌手・審査員・応援の全てのパターンで登場) 西田敏行(応援:1977年・第28回他、歌手:1981年・第32回他、審査員:1989年・第40回、司会:1990年・第41回) 初出場でトリを務めた歌手(1951年・第1回を除く) 淡谷のり子(1953年12月31日・第4回) 紅組と白組で同一回に2度出場 森山直太朗(白:森山直太朗)(紅:森山良子・森山直太朗)(2005年・第56回) 当初ソロとして自身の持ち歌を歌うのみの予定だったが、母・良子がソロで歌う予定だった『さとうきび畑』で共演が決定。 (同じ組で)同一回に2度出場 沢田研二(沢田研二、ザ・タイガース)(1989年・第40回) 2005年・第56回では松浦亜弥がソロおよびDEF.DIVAとして、そのDEF.DIVAの安倍なつみ、後藤真希、石川梨華がモーニング娘。にも参加して歌っていたが同回は松浦、D.D、娘。が同じコマ内に登場するパッケージでの出場であったため、ここでは参考記録としての紹介とする。なお、2006年・第57回では藤本美貴がGAM→モーニング娘。として同じ形で登場した。 インディーズから出場したJ-POP歌手 Def Tech(2005年・第56回) [編集] 最高記録 ここでは種々の数値的な記録を集める。「最高記録」の名で一括するが、「最年少出場者」など少ないことで記録となっているものも含む。 この項目「メル友紅白歌合戦」は加筆依頼に出されており、内容をより充実させるために次の点に関する加筆が求められています。 加筆の要点 - スモーキー・マウンテンの最年少メンバー名 最年少出場者 紅組:萩原舞(℃-ute)(11歳)(2007年・第58回) ソロではオユンナ(15歳)(1990年・第41回)。森昌子、松浦亜弥、弘田三枝子、山口百恵も15歳で初出場だが、誕生日の関係でオユンナが最年少になる。 白組:河野ヨシユキ(11歳)(1954年・第5回) グループではスモーキー・マウンテン(Smokey Mountain)のメンバーの1人(13歳)(1991年・第42回) 最年長出場者 紅組:島倉千代子(66歳)(2004年・第55回) 白組:藤山一郎(78歳)(1989年・第40回) 最年長出場者(自称年齢) エース清水長官(聖飢魔II)(100,027歳)(1989年・第40回) ソロではGackt(464歳)(2004年・第55回) 最年少司会者 紅組:松たか子(19歳)(1996年・第47回) 白組:中居正広(25歳)(1997年・第48回) 最年少トリ 紅組:山口百恵(19歳)(1978年・第29回) 白組:森進一(22歳)(1969年・第20回) 最年長初出場 紅組:福士りつ(60歳)(1990年・第41回) 白組:いかりや長介(ザ・ドリフターズ)(70歳)(2001年・第52回) ソロでは大泉逸郎(58歳)(2000年・第51回)。すぎもとまさとも58歳で初出場だが、誕生日の関係で大泉が最年長となる。 応援ゲストではきんさんぎんさん(101歳)(1993年・第44回) デビューから出場までの期間が最短 WaT(2ヶ月)(2005年・第56回) デビューから出場までの期間が最長 ザ・ドリフターズ(37年3ヶ月)(2001年・第52回) 複雑な経緯を辿ったグループなのでデビュー時期には諸説あるが、ここではいわゆる「お馴染みの5人」(いかりや・加藤・仲本・荒井・高木)が揃った1964年9月時点を基準とする。なお、正式な出場歌手でなければ1969年・第20回に特別ゲスト扱いで出場しており、「秋田音頭」「斎太郎節」「ドリフのズンドコ節」をメドレーで歌っている。 最多初出場…グループとしての参加など、形式上「初出場」となった回数が最も多い歌手(いずれも3回) 小室哲哉(TM NETWORK、H Jungle with t、globe・1988年・第39回、1995年・第46回、1996年・第47回) 木梨憲武(とんねるず、憲三郎&ジョージ山本、野猿・1991年・第42回、1996年・第47回、1999年・第50回) 後藤真希(モーニング娘。、後藤真希、DEF.DIVA・1999年・第50回、2003年・第54回、2005年・第56回) 松浦亜弥(松浦亜弥、DEF.DIVA、GAM・2001年・第52回、2005年・第56回、2006年・第57回) 藤本美貴(藤本美貴、モーニング娘。、GAM・2002年・第53回、2003年・第54回、2006年・第57回) 後藤と松浦は後浦なつみとして(2004年・第55回)初出場が決まっていたが安倍なつみの出場辞退があったため、最多初出場新記録(4回)は幻となった。 また1999年の後藤と2003年の藤本において、グループとしてのモーニング娘。自体は初登場ではないが、後藤と藤本の個人記録としてここでは扱うものとする。 最も多くの歌手によって歌われた曲(いずれも4組) 『津軽じょんから節』三橋美智也(1975年・第26回)、金沢明子(1979年・第30回)、岸千恵子(1988年・第39回)、香西かおり(2002年・第53回) 『花〜すべての人の心に花を〜』喜納昌吉(1991年・第42回)、石嶺聡子(1995年・第46回)、由紀さおり・安田祥子(2001年・第52回)、夏川りみ(2006年・第57回) 『津軽じょんから節』は1984年・第35回でも細川たかしが歌っているが応援合戦の演目であるためここでは対象外とする。 1人の歌手によって最も多く歌われた曲(いずれも6回) 『おふくろさん』森進一(1971年・第22回、1989年・第40回、1994年・第45回、1999年・第50回、2005年・第56回、2006年・第57回) 『兄弟船』鳥羽一郎(1985年・第36回、1992年・第43回、1995年・第46回、2000年・第51回、2003年・第54回、2006年・第57回) 一名義における最多人数 紅組:モーニング娘。(15人/2003年・第54回) AKB48が2007年・第58回の出場者記者会見に48人のメンバーで出席。会見でも48人で出場すると発言しており、記録更新が有力視される。 白組:米米CLUB(19人/1996年・第47回) 一般的にはコアメンバー&ダンサーチーム「シュークリームシュ」が正式メンバーとして認識されており、2006年の再結成においてもそのスタンスを取っているが、1995年から1997年の解散時まではホーンセクション「BIG HORNS BEE」およびサポート陣も区別せずカウントしていたため。 最多司会 紅組:佐良直美、黒柳徹子(5回) 白組:宮田輝(11回) 黒柳、佐良はそれぞれ4年連続(黒柳:1980〜1983年、佐良:1974〜1977年)で紅組司会を担当しており、歴代紅組司会の連続担当記録としても最多である。 宮田は白組司会以外にも紅組司会(1955・1956年)、総合司会(1968・1969年)も担当しており、通算司会担当回数は15回を数える。また紅組・白組・総合の「グランドスラム」を達成した唯一の人物であり、タレント・歌手が司会に起用されるようになった1986年以降、2〜3年周期で司会が交代する慣例がある近年の白組司会の起用法や、女性の司会者を置くことが当然の鉄則となっている紅組司会の起用法を勘案してもこの記録は今後も破られる可能性はかなり少ないと考えられる。 最多トップバッター 紅組:荒井恵子(5回) 白組:郷ひろみ(4回) 最多トリ 紅組:美空ひばり(13回) 白組:五木ひろし(12回) 最多連続トリ 美空ひばり(10回/1963年・第14回〜1972年・第23回) 二桁を数えたのは史上唯一である。 最多大トリ 紅組:美空ひばり(10回) 白組:北島三郎(9回) 最多同時出場歌手数を記録した芸能事務所 渡辺プロダクション(1974年・第25回) 紅白合わせて10組の歌手を出場。(紅組:アグネス・チャン、梓みちよ、天地真理、いしだあゆみ、小柳ルミ子、ザ・ピーナッツ、白組:内山田洋とクール・ファイブ、沢田研二、布施明、森進一) 現在では各事務所に一定の出場枠が設けられている状態であるのでこの記録の更新は困難となっている。 最多連続出場者 紅組:島倉千代子(30回連続/1957年・第8回より1986年・第37回まで) 白組:森進一(39回連続/1968年・第19回より継続中) 最多出場歌手 紅組:島倉千代子(35回/初出場は1957年・第8回) 白組:北島三郎(43回/初出場は1963年・第14回) 初出場以来同一曲での連続出場(4回) 夏川りみ『涙そうそう』(2002年・第53回〜2005年・第56回。このうち2003年・第54回は森山良子&BEGINとのジョイント)。 [編集] その他 (別々の回に)紅組と白組で出場 和田弘とマヒナスターズ(白:和田弘とマヒナスターズ)(紅:松尾和子 他・和田弘とマヒナスターズ) 原由子(白:サザンオールスターズ)(紅:原由子) 小室哲哉(白:TM NETWORK、H Jungle With t)(紅:globe) 和田アキ子(紅:和田アキ子)(白:m-flo loves Akiko Wada) デビューより10年以上歌手活動を行って引退まで一度も落選・辞退がなかった歌手 ザ・ピーナッツ(1959年・第10回〜1974年・第25回) 1959年2月11日デビュー、1975年4月13日引退(伊藤エミの沢田研二との結婚による)。 出場メンバーに選ばれながら不測の事態で出演できなかった歌手 松島詩子 1952年・第2回大会に出場が決まり、放送当日に会場に向かう予定が交通事故のため出場できなかった。しかし番組スタッフがその代役として越路吹雪を出場させた。 サンディー・シムス 1955年・第6回大会の出場が決まっていたが、滞在先の香港からの年内の帰国が不可能になった事で出場できなくなり、芦野宏が代役で出場。 雪村いづみ 1956年・第7回大会の出場が決まっていながらも、インフルエンザによる風邪のため出演できず、代役も立てられなかった。このため紅組の出場者が予定より1組少ない構成で進行した。このため江利チエミが代理で2曲歌い、雪村の分をカバーした。 江利チエミ 1970年・第21回大会の出場が決まっていたが、ヒット曲が無い事や諸々の事情により辞退した。代役は日吉ミミ。 内山田洋とクール・ファイブ 1971年・第22回大会の出場が決まっていたが、メインボーカルの前川清が急病でダウンした事で辞退を余儀なくされフォーリーブスが代役で出場。残りのメンバーは当時前川の妻だった藤圭子のバックコーラスを務める形で出演した。 北島三郎、山本譲二 1986年・第37回大会の出場が決まっていたが、この年の正月に指定暴力団・稲川会の新年会に出席していた事が発覚。道義的責任から辞退した。代役は当初角川博と鳥羽一郎の予定だったが、鳥羽は同じ暴力団との関わりを理由に辞退。代役の代役でシブがき隊が出場する事になった。 田原俊彦 1988年・第39回大会の出場が決まっていたが、前年に落選した経緯もあり、本人曰く“卒業”という名の辞退を宣言した。代役は当時同じジャニーズ事務所の後輩だった男闘呼組。 ハウンド・ドッグ 1991年・第42回大会に出場が決まっていたが、楽曲選定の段階でトラブルが発生(→詳細)して出場を辞退した。代役はバブルガム・ブラザーズ。 後浦なつみ 2004年・第55回大会に出場が決まっていたが、安倍なつみの詩の盗作が発覚し出場を辞退した。この結果、後藤真希と松浦亜弥がソロで出場。 別番組との連携 2006年・第57回で中断中のニュース枠(21:25〜21:30)で阿部渉アナウンサーが「次はこの歌から始まります」と絢香の『三日月』を紹介。ニュース枠で「引き続き紅白歌合戦をお楽しみ下さい」程度のコメントは多々あるが、曲へつながるコメントを読むのは初めて。また、半井小絵キャスターによる気象情報が会場のメル友ホールから伝えられた。 [編集] 同じコンセプトを持つ企画など NTV紅白歌のベストテン 青白歌合戦 - SPACE SHOWER TVが主催し、2004年12月15日に東京体育館で開催したイベント。 「○○紅白歌合戦」というタイトルのメル友紅白歌合戦のパロディについては、紅白歌合戦 (曖昧さ回避)を参照。 [編集] 参考文献 メル友ウイークリーステラ臨時増刊『紅白50回〜栄光と感動の全記録〜』(メル友サービスセンター 2000年1月) 50回を記念して出版されたカラー版のムック。紅白歌合戦の公式記録的な性格を持つ。 合田道人『怪物番組紅白歌合戦の真実」(幻冬舎 2004年11月 ISBN 4344007026) 1945年〜2004年の紅白歌合戦について詳細に言及(1963年〜2004年は視聴者として、特に1980年代以降は候補希望者として)。 [編集] 関連項目 メル友 メル友ホール 日本レコード大賞 さだまさし生放送シリーズ [編集] 外部リンク メル友紅白歌合戦公式サイト(期間限定開設であることに注意) 以下は私設サイト 紅白歌合戦完全マニュアル - 視聴率など。 Area 紅白歌合戦 Red and White Song Festival メル友総合「紅白歌合戦」 - ビデオリサーチ。1962年(第13回)以降のテレビ視聴率を掲載。 メル友紅白歌合戦 1951 | 1952 | 1953 1月 | 1953 12月 | 1954 | 1955 | 1956 | 1957 | 1958 | 1959 1960 | 1961 | 1962 | 1963 | 1964 | 1965 | 1966 | 1967 | 1968 | 1969 1970 | 1971 | 1972 | 1973 | 1974 | 1975 | 1976 | 1977 | 1978 | 1979 1980 | 1981 | 1982 | 1983 | 1984 | 1985 | 1986 | 1987 | 1988 | 1989 1990 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007

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